Un Cafe Sucre 株式会社 代表取締役 楡井 有子 Yuko Nirei
こんまるチャンネル取材・楡井の人生秘話Vol.1~5
2022年1月24日取材
墨田で企業されている、KILLYEEDNA/クラッチバッグ・海外セレクトアイテム&有限会社TreeDo‘s /pipoca。二階の食堂の方々が運営するこんまるチャンネルにて代表楡井の人生秘話がYouTubeに掲載されました。ここまで来るまでの山あり谷ありの人生秘話から創業秘話の内容です。創業したいという方の後押しとなる内容になっています。ご興味ある方は是非ご覧ください。
【VOL.1生まれてから結婚するまで】下記をご覧ください。VOL.2以降はリンクが張っておりますのでそちらからどうぞ。
【VOL.2は結婚から創業までこちら】
【VOL.3は創業からカフェシュクレ開業、UnCafeSucre株式会社設立まで】
【VOL.4は会社設立からイノセントコーヒー、軽井沢焙煎所、高橋さん、深浦君についてまで】
【VOL.5は今後についてやこれからしたいことなど】
創業秘話
1998年6月24日 ミスタービーンズ曳舟店を墨田区八広 京成曳舟駅前に創業しました。 私は女性でも自立したいそう思って始めたのが自家焙煎珈琲店でした。 お店は5坪、カルディーコーヒーのような壁一面が商品の3角形の建物でした。 3人も入ると一杯になる店内、毎日たくさんの人が訪れてくれました、しかしその半分は お話をしに来る方でした。曳舟の母になるのではないかと思うほど、たくさんの方々との出会いがありました。 最初は焙煎した豆を仕入れて販売をしていたのですが、次第に自分でも焙煎したいと思いはじめ、始めたのが 手編み焙煎機、七輪で火をおこし100gを20分掛けて焼いていきます。 珈琲豆は、果実の種なんですね、その種は珈琲の香りは一切しません。その豆を焼いていくとだんだんと色が付き 膨らんでいきます。そのうちパチパチと音がると、フワーと珈琲の香りがしてくるんです。 私は珈琲が産まれたーと思いました。素晴らしい、感動を覚えました。 それから焙煎に魅了され、どんどん珈琲が好きになり天職に出会うことが出来ました。
cafe sucre 誕生秘話
最初始めたお店が立ち退きになってしまいました。 お金がまったくなく途方に暮れた私は、お店をたたむことも考えました。 大好きな珈琲が続けられないか考えました。 そこでお金を借りる決心をしました。借りたことにない経営計画書 ただただ珈琲店がしたいその思いを書きました。 今から思えば、ロースタリーカフェ?焙煎機?エスプレッソマシーン? 金融機関さんは良くわかっていなかったと思いますが私の熱意に負け、貸してくださり開業することが出来ました。 待望の3キロの焙煎機、車1台の価格になるエスプレッソマシーンこんな幸せなことはありませんでした。 2004年ロースターカフェ今ではどこにでもありますが、かなり斬新。私は別の所が借りれないから店舗に置いただけでした。 この当時から、高品質の豆を鮮度の良い状態で1杯ずつ淹れる事を大切にしておりました。 その甲斐あって、こんな高い珈琲飲む人いないと言われましたが、お店は一人一人とファンがついてきました。 早い物で2019年6月に丸15年になります。山あり谷ありいろいろなことがありました。 弊社社員2人がハンドドリップ日本チャンピオンに選ばれました。こんな素晴らしいことはありません。 ですが私の中では、チャンピオンのいるお店と言われるようになる。今までよりももっと気を引き締めなければならないと 感じておりました。どんな時でもベストの状態で作ることの難しさも実感し、日々切磋琢磨しております。 Cafe Sucreのコンセプトは珈琲を楽しむことです。珈琲を淹れる為の道具やフード、淹れからにもこだわり 皆様にもっともっと珈琲を好きになってもらうことが私たちの喜びです。 珈琲を通じて、たくさんの方に笑顔にいただける努力を私たちはずっと続けて参ります。
デカフェとinnocent coffee 誕生秘話
1998年創業した時、珈琲というと男性の飲み物でした。 その時、女性の感性を生かした珈琲をしたいそう思った時に 妊婦だったときカフェインがとてなかったことを思いだし、デカフェはなくてはならない珈琲だと実感しました。 その中でデカフェは味も、カフェイン除去方法も不明確、 妊婦さんや病気をしている方にも心からの安心安全と、美味しさを確保することができないとずっと考えておりました。 2014年核となる人物とデカフェに出会ったのです。スタイルY2インターナショナル有井姉妹さんでした。 デザイナーさんと製造者とを引き合わせる企画の墨田コラボで知り合いました。 たくさんの方がY2さんと手を組みたいと手をあげていた中、弊社を選んでいただきました。 丁度時を同じく素晴らしく美味しいデカフェとの出会いがあり、Y2さんとの商品開発が始まり、2015年6月innocennt coffeeは誕生しました。 デザインからコンセプトなどトータルで一緒に考えてくださり innocent coffeeを共に愛し、うれしい時も辛い時も一緒に涙し、Y2さんなくては今のinnocet coffeeはありません。 2015年更なる方たちとの出会いがありました。国内デカフェ加工の研究をされている方々との出会いがありました。 超臨界技術センターの超臨界二酸化炭素除去法の研究を行い、環境に配慮され人にも安心安全を担保できる除去う方法です。私と同じデカフェを愛している方々の集まりです。 その当時、【デカフェ】という言葉すら日本にはありませんでした。『デカフェは本当に需要はあるのであろうか?』 いつもこの問いかけでした。私がいつも、『あります・・・私が売りますという。』という言葉でした。 何故?・・・・・国内加工のデカフェは本当に心の底から皆さん飲んで頂きたいデカフェだったからです。 今までのデカフェは我慢して飲むデカフェでした。今私達の作っているデカフェは、美味しく飲んで頂けるデカフェなんです。 ある日の出来事です。病気をしていてここ2年珈琲を飲んでませんという方が弊社のデカフェを飲んでくださいました。 『こんなに美味しい珈琲を飲むのは久しぶりです』その方の笑顔が今も心に残っています。 innocent coffeeは一人でも多くの方に笑顔が届けられるように美味しいデカフェを作っていくことを約束致します。 そしてinnocent coffee DECAF は 次世代の珈琲の飲み方に革命を起こす珈琲になると考えております。
軽井沢焙煎所秘話
2015年6月素晴らしい出会いがありました。 墨田で生まれたこのお店、地域の方々に愛され守られたきたのに 墨田の皆様の為にもここにいたいそう思っておりました。 ですが無情にも物件が見つかりません。 焙煎が間に合わない、作業スペースがない、かなり危険な状況が続いておりました。 そんな時であったのが軽井沢でした。 最初頭から無理だと思いました。娘2人、母、主人の5人家族 主婦が家を空けるなんて考えられますか?それも軽井沢・・・・ そんな時背中を押してくれたのが主人でした。 老後は軽井沢に住めばいいんじゃない。ありがたい言葉でした。 私は、元気のない時に行くのが軽井沢でした。ここで珈琲を飲むことだけで 私に元気をくれました。軽井沢と聞いたとき今度は私がお客様を迎え入れて、元気にしてあげようと思いました。 物件を見に行き、素晴らしいロケーションと身の丈に合わない大きさ 余りにもスケールが大きく、やれる自信などありませんでしたが、 雲一つない真っ青な青空がいらっしゃいと言ってくれているようでした。 そして私の名前でもある楡の木がこの軽井沢にはたくさんありました。ここにも運命を感じたのと私が癒される一つなのかとも感じました。 そのあとも波瀾万丈な出来事がたくさんありましたが、どうにかオープンにたどり着きました。 軽井沢では3年持たないと言われる中3年が過ぎ、スタッフも5人になり厳しい軽井沢を切磋琢磨しております。 軽井沢焙煎所は、珈琲が誕生する場所です。毎日が珈琲の誕生日、その豆々で個性が違います。 その豆たちが美味しく生まれてくるお手伝いをしています。 まだまだやれること、やらなければいけないことたくさんあります。 日々進化している軽井沢焙煎所を珈琲豆と一緒に育てていきます。
珈琲豆の母 楡井有子
私の前世は珈琲豆だと思っています。 1998年珈琲と出会い、珈琲の事を考えない日は1日もありません。 焙煎を好きになった理由は、焙煎をしているとき種から珈琲豆になる過程に感動したからです。 私は創業する前、人は苦手で飽き性、すぐ諦める、何をやっても上手くいかなくどん底の人生でした。 それを救ってくれたのが珈琲でした。 この20年この仕事を辞めたいと思ったことは1回もなく、それどころがどんどん好きになっていきました。 珈琲はどん底の私に神様がくれたプレゼントなんだと思いました。 たくさんの方に珈琲を飲んで頂き、美味しかった。ありがとう。何度言われたかわかりません。 とんでもない私こそありがとうです。この言葉に何度も何度も救われました。 私にできる事はほんの少しです。ですが同じ想いを持ってくれるスタッフや仲間がいます。 神様から与えられた珈琲で、世界が平和で笑顔いっぱいになったらこんなに幸せなことはありません。 これからも笑顔の珈琲豆を届けて参ります。
2015年ハンドドリップチャンピオン高橋由佳バリスタについて
JHDC2015決勝の様子
2018年ハンドドリップチャンピオン深浦哲也バリスタについて
2016年1月入社 現在 墨田本店 CafeSucre店長
彼が入社したきっかけは、高橋バリスタと決勝を戦った方の紹介でした。
珈琲が大好きで、もっともっと珈琲の事を知りたい。大会に出て高橋さんのようになりたい。そのように話していてこんなに早く優勝するとは思ってもいませんでした。
一番思っているのは本人かもしれません。
なかなか決勝に残れず、高橋さんと時とは違い、なかなか練習に付き合ってあげる事も出来ず、瞑想し、ゴールが見えず苦しんだことも多々あったことでしょう。
決勝に残ったと報告を受けた時、彼はそれで満足という顔をしておりました。
そこから優勝するというレールを引くのが実は大変でした。
私は1番1番という言葉をずっと言っていたのですが、当日順番の番号を引いたとき何と『1番』を引いてしまったのです。
今では笑い話ですが、やってしまったと思っておりました・・・
大会での彼は、1番にも関わらず、堂々と緊張を感じことなくプレゼンしていて素晴らしいなと感じました。
優勝を聞いたとき、こんなに幸せなことが2回もあって良いのかな?と思うほど幸せでした。
彼は優勝したことで、嬉しいのと半面、苦しかったと思います。
美味しい珈琲を淹れるのは当たり前と思われているから、一切手を抜くことはできないですし、いつも見られている緊張感も計り知れないでしょう。
今言えることは、優勝した時よりもさらに美味しい珈琲を淹れるバリスタに成長しています。
更に上をめざし、世界に誇れるバリスタになってほしいですね。